恒夫さんとともに「持続可能な美浜」を構想しませんか?

  • 河和中学校の教員・校長だった竹内美智雄先生と野間「かざりや」旅館の五女愛子さんの長男
  • 「ミスター環境庁」「環境省のラストサムライ」といわれた男
  • 脱炭素・資源循環型の地域づくりをリードした元名大教授
  • 昔から人一倍「地元想い」の現北方区長
  • ギクシャクしてしまった国、県などとの関係を、自らの太いパイプで修復し、沈みゆく美浜町を再生し、持続的に発展させることができる人

それが、恒夫さんです。

持続可能な美浜を構想する会 顧問 木村辰三(大栄産業株式会社会長)

恒夫さんのご紹介

恒夫さんは、河和中学校教員の竹内美智雄先生と野間「かざりや」の五女の愛子さんの長男として1954年2月18日、北方に生まれました。10日後の同月28日、河和町と野間町の町議会は両町の合併案を可決、翌1955年4月、美浜町が誕生しました。

河小・河中(小4の3学期~中1は名古屋)・半高・名大(経済学部)を経て、1977年4月、環境庁(2001年1月から環境省)に入庁。

1980年代末から90年代半ばにかけて「エコマーク」(町内D社の製品も認定商品)、「こどもエコクラブ」(2005年3月に南知多ビーチランドで全国フェスティバル開催)、「環境カウンセラー」(愛知県環境カウンセラー協会の現会長は古布出身・在住)、「エコアクション21」(中小企業の環境経営認証制度:町内N社は認定事業場)などを自ら発案・導入。恒夫さんは日本における「エコ」の仕掛け人でした。ある政治家は「ミスター環境庁」と呼んだとか。当時も町長だった斎藤宏一町長は何度か恒夫さんや同じ北方出身で同級生の農林水産省の佐藤正典さんを訪問。恒夫さんに美浜の竹炭活動への地球環境基金からの助成金交付をサポートしてもらったことも。

1990年に初めての国のCO2削減目標・行動計画を策定してから、初代地球温暖化対策課長として大木浩環境大臣(愛知8区選出)の右腕となって2002年に京都議定書の批准を成し遂げるまで、恒夫さんは日本の温暖化対策の中心にいました。

2003年、初めて循環型社会の基本計画を作り、恒夫さんは「循環型社会」づくりのレールを敷きました。私は、浄化槽の仕事で環境省を訪れた際に恒夫さんにお会いしました。ある環境省の後輩は「環境省のラストサムライ」と評していました。

2006年4月、母校名大に新設された環境の大学院からの招きに応じて教授に就任。なんと、この時の名大総長は父美智雄先生の河中の教え子の平野眞一教授(布土出身、名誉町民)でした。名大時代、愛知県、名古屋市など多くの自治体や企業・市民団体と連携し、恒夫さんは脱炭素・資源循環・自然共生型の「持続可能な地域づくり」を先導しました。欧州連合(EU)のプロジェクト(「世界気候エネルギー首長誓約」)も獲得し、日本国内での普及を図ってきました。中部ESD拠点協議会運営委員長・愛知学長懇SDGs企画委員長・なごや環境大学幹事・中部サステナ政策塾顧問などとして、恒夫さんは持続可能な地域づくりを担う人材の育成にも尽力しました。 

名大に来て、30年ぶりに北方に住むようになりましたが、毎日、名鉄で名古屋に通勤。それでも、お寺の世話人、お祭りの手伝いなどの役や活動に参加。東京にいた頃でも、ご祈祷会、お施餓鬼には毎回来てくれました。本当に地元思いの恒夫さんは、昨年、なり手がいない北方の副区長を引き受け、今年は区長です。

北方の家には、20年前に薪ストーブ(薪は自前)、10年前には太陽光発電と循環式太陽熱温水器を設置しました。いま、祖父康男さん(トウチュウ創業者の森田美喬さんの実兄)が60年近く前に里山に植えた数十本の杉の丸太を柱・梁・桁などとして使い、半ば自分で平屋の建物をつくっています。本職による建前を経て、現在、土壁にするため、自分で竹と棕櫚縄で「エツロ掻き」をしています。これらは、恒夫さんのエコな趣味です。    

持続可能な美浜を構想する会 顧問 木村辰三(大栄産業株式会社会長)

後援会「持続可能な美浜町を構想する会」入会のお願い

「持続可能な美浜町を構想する会」の会員を募集しています。入会いただける方の情報を以下のフォームに記入、送信をお願いします。

ご提出いただきました個人情報は本後援会の目的以外には使用しません。